山崎晴義氏

プロフィール
昭和35年、慶應義塾大学医学部卒業。
36年に渡米、三市の病院で研鑽を積む。
パリ、ロンドンを経て、40年7月より
ザンビア共和国キトウェ中央病院勤務。
44年、キトウェにて開業。51年帰国。
52年に山崎クリニックを開業、院長。
一日も休まず夜間も診療 川崎市多摩区のDr.コトー
山崎クリニックは神奈川県川崎市の北部、多摩区西生田にある。院長の山崎晴義医師は昭和52年の開業以来、34年間にわたり、内科医、小児科医として昼夜を問わず、精力的に地域医療を担ってきた。
「この辺りは坂が多くて、陸の孤島といわれているんです。山崎先生は、まさに多摩区のDr.コトーですね」と笑顔で話してくれたのは、「次男の7ヵ月健診で来院」したというお母様。「長男ともども、ずっと先生にお世話になっています」と語る。
診察時間は日曜・祝日を除き、毎日朝8時半から夜8時半まで(土曜は12時まで)。お昼と夕方は食事のために一時休むものの、夜間は7時から再開し、8時半まで診療に当たっている。「夜、子どもが急に熱を出した時もすぐに診ていただけるので、本当に安心なんです」とお母様は続ける。
病気になったことがないという山崎医師。「1度だけ休診したことがありますよ。それはノバルティス地域医療賞の贈呈式に出席させていただいた日。でも3時から診察を始めましたので、完全休診日にはなっておりませんね」と笑う。Dr.コトーの面目躍如、患者さんにとっては頼もしい限りだ。
協力医の出動編成を整え川崎市の夜間救急をリード
山崎医師は、川崎市医師会の活動はもとより、川崎市多摩休日夜間急患診療所運営委員会委員、川崎市介護認定審査会委員など、医療行政にも積極的に参加してきた。特に、市の夜間救急事業、夜間小児救急事業の向上に大きな役割を果たしたという。
川崎市多摩休日夜間急患診療所と川崎市北部小児急病センターに出動する医師は、主に地元多摩区の開業医等から編成されている。山崎医師は制度創設時から率先して出動医として協力するとともに、協力医の体制づくりに尽力。また、一番不足している小児科医を確保するため、積極的に各方面へ依頼に出向き、その出動編成も整えた。
さらに、これまでの海外での豊富な診療経験を活かし、常備薬等をどう備えるかなど、設備面に関しての助言を含め、施設運営においても主導的な立場で関わってきた。
昭和35年に慶應義塾大学医学部を卒業した山崎医師は、同大学附属病院で産婦人科医として勤務した後、翌年11月に渡米。クリーブランド、フィラデルフィア、ニューヨーク三市の病院を経て、フランスのパリ大学附属病院、ロンドンのセント・ジョン&セント・エリザベス病院にて、さらなる研鑽を積んだ。
「当時、欧米では無痛分娩が流行っていました。硬膜外麻酔を行って出産する方法ですが、現在は日本でもどこでも行われるようになりましたね。そうした新しい技術を日本にもたらしたいと考えていたんです」ところが、探検家デイヴィッド・リヴィングストンの伝記を読んだことで、氏の人生は一転する。
心からの親しみの情を感じたザンビアでの日々
「Dr.リヴィングストンは、ヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸を横断した人ですが、宣教師であり、医師でした。彼のように僻地で医療に携わりたい——そう思って、彼の終焉の地であるザンビア共和国へ行くことを決断しました」
三十一歳だった山崎医師は、昭和40年7月、ザンビアのキトウェ中央病院で働き始めた。「最初は半年ぐらいの予定だったんですが、患者さんから頼られている、と知って、離れられなくなって……。中央病院で4年間勤務した後、内科を主とした一般医として開業し、7年を過ごしました」
かつてイギリス領だったこの国は白人優位の世界。山崎医師との間には、当時の白人医師と現地人患者にはあり得ない、親しい心の交流が生まれたという。「1日に500人ぐらいの患者さんが訪れましたね。そのうちの5、60人は黒人の貧しい方達でしたので、無償で診ましたよ」セスナやランドクルーザーで運ばれてくる重篤な患者さんの命を救ったことも一度や二度ではない。
この町では、お世話になった人の名を自分の子どもに付けるという習慣がある。キトウェに「ヤマザキ」という名の子どもがたくさんいるのはこのためだ。氏の3人のご子息はみんなキトウェ生まれ。ご長男の貫太氏は町田市の鶴川で獣医を開業したそうだ。