9歳4ヵ月の命

9歳4ヵ月の命

9歳4ヵ月の命


「がんの子どもを守る会」九州支部の代表を務める高橋和子さんが小児がんの支援活動を始めてから、もう30年が経つ。「小児がんの支援を一生、やっていこう。」そう心に決めたのは、高橋さん自身が小児がんの子どもを持つ親だったからだ。

小学校に上がったばかりの長女・聖子(しょうこ)ちゃんのがんが見つかったのは1980年のこと。今ほど情報のない時代だ。「まさか自分の子どもががんになるなんて思いもしませんでしたし、そもそも子どもでもがんになるということさえ知りませんでした。」

医師や看護師に質問したり、自分でも調べたりするうちに、聖子ちゃんの状態はかなり悪いことがわかってきた。それでも「悪性腫瘍とはどんな病気か」を子どもにもわかるように話し、本当のことを伝え続けた。病気を理解した上で、聖子ちゃん自身に「治そう」という強い気持ちを持って治療に臨んでほしかったからだ。

それでも状態が悪化し、治癒が難しくなってくると、徐々に死を受け入れられるようにしてあげなければという思いも抱くようになった。“その時”が近づいていることを認めることは親にとってあまりに辛く、どう伝えるべきか高橋さんは日々思い悩んだ。「自分自身が毎日毎日恐怖との闘いで、夜になるとドロドロの暗闇に引きずりこまれるような感覚がありました。そのとき9歳になっていた娘は、私以上に恐怖心を抱いていたと思います。」

どうやって死を受け入れさせようか。悩んだ高橋さんは、加藤登紀子さんの歌「この空を飛べたら」にヒントを得て、小鳥のイメージを抱かせてあげようと考えた。「子どもは亡くなったら小鳥になるそうよ。小鳥になったら、どこにでも好きなところに飛んでいけるからいいね。」ある朝、窓辺でチュッチュッと鳴く小鳥の声を聞きながら、そう話して聞かせた。

それから少し経って、聖子ちゃんは2年3か月の闘病生活を経て亡くなった。

精一杯生きよう

精一杯生きよう


聖子ちゃんのがんが見つかってから亡くなるまで、高橋さん自身、「なぜ、うちの子がこんな病気になるんだろう」という悔しさ、「聖子がこの世から消えてしまう…」という恐怖心と孤独感に苛まれていた。

支えになったのは、同じ辛さを抱え、同じ目線で話ができる、小児がんの子を持つ親たちの存在だった。発病後すぐに担当医から、「がんの子どもを守る会」を紹介してもらい、九州支部会に参加したところ、そこには同じ立場の親たちが集まっていた。
「当時は『がん=死』という時代でしたから、聞くも涙語るも涙という話題ばかりでしたが、それでも『自分ひとりではないんだ』という心強さがありました」

聖子ちゃんが闘病していた病院で先輩達と親の会をつくり、一緒に病気のことを勉強した。「兄弟以上のつながりで、戦友のような存在」という親の会のメンバーとは、小児がんに関するボランティア活動を続け、お互いの子どもの年忌を行うなど、今でも交流が続いている。

聖子ちゃんを亡くした後、そうした親の会の仲間たちと、あるいは一人で、まず取り組んだのは、院内学級を普及すること、神経芽細胞腫のマススクリーニング(集団尿検査)を広めること、そしてがんの子どもを守る会の支部会を活発にすることだった。院内学級は当時はまだ稀で、聖子ちゃんが闘病していた病院にはあったものの、医師がポケットマネーで維持しているような状況だった。また神経芽細胞腫とは聖子ちゃんがかかった小児がんであり、乳幼児期に尿検査を行うことで早期発見が可能になることがわかっていたからだ。

これら以外にも、「母子家庭の支援は整っているのに父子家庭の支援は整っていない」「お母さんが入院中の子どもに付き添っている間、お父さんが孤軍奮闘している」など、その時々で気づいた問題に、その都度取り組んでいった。問題を見つけては、解決のために走る。そんな日々を支えるのは、やはり聖子ちゃんの存在だったという。

精一杯生きよう

「短い期間だったけれど、聖子は精一杯生きてくれました。そして生きるということがいかに大事か、一生を振り返ったときに『幸せだった』と思える生き方をしなければいけないと、私に教えてくれたんです」

自立支援の農場を開く

自立支援の農場を開く


小児がん経験者の就労問題というテーマに関心を持ったのは、小児がんの支援活動を始めて、25年ほど経った頃のこと。1人の青年との出会いがきっかけだった。

小児がんは昔でこそ、「不治の病」と言われていたものの、現在では7割以上が治ると言われる。ただ、がんを乗り越えた後に、二次がんや免疫不全、骨密度の低下、低身長や痩せ・肥満、ホルモン分泌障害、不妊など、強い治療を受けた影響で晩期合併症が起こることも多い。

高橋さんが出会ったその青年は、まさに晩期合併症を抱える小児がん経験者だった。幼少期に白血病にかかり、18歳で再発。父親の末梢血幹細胞を移植して寛解(症状が安定した状態)に至ったものの、薬や放射線、手術などの影響で、骨粗しょう症や痩せなどの晩期合併症が残り、疲れやすく、仕事に就いても最長でも3週間となかなか続かず、引きこもりがちの生活を送っていた。

そんな彼を、2006年から続けている「小児がん関係者達の日韓国際交流」に出席するためソウルに連れて行った。はじめのうちこそ不安そうにしていたが、参加メンバーからレポートを回収する役を任せたところ、次第に表情が明るく変わり、内面にも少しずつ変化が起きていった。

「家の中だけだった世界が広がったのでしょうね。帰国したら『車の免許が取りたい』と言い、免許を取ったら、今度は教習所で出会った友達と食事に行くためにお金が必要になって『仕事をしたい』という気持ちが高まっていったようです」

とはいっても、小児がんの晩期合併症というハンデを抱えながらも働ける場所は、容易には見つからない。

「障がい者の自立支援施設は整っていますよね。そうした施設を覗くと、みんな生き生きと働いているんです。ところが、小児がんという大変な病気をした人たちのための公的な就労支援サービスは何もなく、仕事をしたくでもできない人がたくさんいます」

自立支援の農場を開く

公的なサービスがないのなら、つくるしかない。「なんとかしたい」という一心で高橋さんが始めたのが、小児がん経験者のための自立支援農場「スマイルファーム」だ。ここでは今、前述の青年も含め、2人の小児がん経験者が働いている。
体力に自信がない彼は、コミュニケーション能力を活かして営業やパンフレット制作を。コミュニケーションが苦手なもう1人は率先して畑仕事を行い、時には、獲れた野菜を使って得意な料理でもてなしてくれるという。「お互いにできないことを補い合っていて、精神的にも支え合っているようです」と高橋さん。

現在、スマイルファームでは四季を通して40種類もの野菜をつくっている。「健康な野菜作りは、健康な土作りから」と、土にこだわった野菜は、道の駅などで売られている。

「何より、『自分で撒いた種が育って、収穫するのが楽しい』と辛そうな顔を一つも見せずに、寒い日も暑い日も朝から畑に出ている二人を見ると、私の方が感動しちゃいますね。今は、『野菜ソムリエになりたい』という夢も出てきたみたいです」

きょうだいのことも忘れないで

きょうだいのことも忘れないで


「小児がんの経験をバネにできる子とできない子がいるように思います」と高橋さんは言う。

先に紹介した少年は、“バネ”にできず悩んできた方だろう。一方で、一般社会で逞しく生きる子もいる。その違いは、本人の問題もあるかもしれないが、両親の関わり方も関係するのかもしれないと高橋さんは考えている。

「小児がんのお子さんを持つ親御さんは、大変な病気だけに過保護、過干渉になりがちなんです」と高橋さんは言う。だからこそ、小児がんの子を持つ親には「子どもがひとりになったときはどうするの?」と問うようにしている。

「もしも聖子が生きていたら、私だってはらはらどきどきして、心配は一生尽きなかったと思います。でも、ずっと世話をできるとは限りませんし、本人自身が自立してどう生きていくのかを、考えなければいけません」

もう一つ、自分自身の反省もふまえて、常に伝えているのが、「闘病中の子どもだけではなく、他のきょうだいともちゃんと話をして心を通じ合わせてほしい」というメッセージだ。

聖子ちゃんには兄と妹がいるものの、聖子ちゃんの闘病中、家と病院との往復で精一杯だった高橋さんは、特に「お兄ちゃん」に関しては「『お兄ちゃんだから大丈夫』と勝手に思い込んでいました」。

間違いに気づいたのは、聖子ちゃんが亡くなって数年経ってからのことだ。「息子さんが万引きをしました」。中学校から連絡があり迎えに行くと、息子は職員室に座らされていた。

「息子を叱りながら、はっとしました。聖子との生活に一所懸命で、息子の寂しさに気づいていなかったんです。そのことにようやく気づいて、この子が私から離れていってしまう前に心を取り戻さないといけないと必死になりました」

家に戻って、ごろっと横になった息子の横に嫌がられながらも寝転がり、「お母さんはあんたの気持ちをわかっていなかった。ごめん」と泣きながら詫びると、ふてくされていた息子の目から涙がこぼれた。

そんな息子さんは、今では立派に家業を継いでいる。

子どもたちは立派に成長し、家業のことも安心して任せられる今、「老後の生活設計はできていますし、自分の私財は全部小児がんのことに費やしていいと家族に了解をもらっているんです」と高橋さんは笑う。

スマイルファームはまだ始まったばかりだ。「働きたいけれど働けない小児がん経験者はまだたくさんいるはずです」。自立支援の問題にまだゴールは見えない。きっと高橋さんはこれからも小児がん経験者や親たちと話をしながら、課題を見つけては一つひとつ取り組んでいくのだろう。

きょうだいのことも忘れないで