何もできなかった

第3回 東日本大震災~その時、がん医療はどう動いたのか

 何もできなかった


「何にもして差し上げられなかったんです。」

3 000人以上もの死者が出た石巻市で、唯一、水没から免れ、自家発電装置を備えていた石巻赤十字病院には多くの患者さんが殺到し、石巻医療圏の災害医療の拠点となっていた。そんな同院で働く看護師の佐藤京子さんは、当時のことを振り返って、「何もできなかった」と目を伏せる。

震災翌日、佐藤が病院に到着すると、野戦病院のような光景が広がっていた。病院の正面玄関ではトリアージが行われ、1階には赤・黄・緑のシートが敷かれ、簡易ベッドが所狭しと並んでいた。軽症の患者さんは正面の玄関ホールに設けられた“緑エリア”へ、緊急ではない中レベルの患者さんは外来待合に設けられた“黄エリア”へ、ただちに処置が必要な重症患者さんは救命救急センターに設けられた“赤エリア”へ、それぞれ運ばれた。

佐藤さんがまず担当したのは、搬送班だ。たとえば赤エリアで処置を行った後、入院が必要になった患者さんを、1階から入院病棟へと上げる。そうした手配を行った。その後、トリアージ班、そして赤エリアの家族支援の担当に移った。

肺炎や低体温症を発症したり、あるいは持病が悪化し、急に具合が悪くなっているのを家族が発見し、救急車で搬送される。命が助からないケースも多くあった。地震、津波から逃れて生き延びたのに、なぜ。そんなやり場のない気持ちと、「突然、大事な人を亡くした」という強い不安を抱える家族のそばに寄り添い、話を聞き、「大変でしたね」と一緒に受け止めてあげることが、佐藤さんの役割だった。

しかも次々と患者さんが運ばれてくるなかで、一人ひとりに十分な時間をかけることはできずに、次々と対応せざるを得なかった。

第3回 東日本大震災~その時、がん医療はどう動いたのか

亡くなった方を収容する、黒エリアの担当もした。その時のことを言葉にしようとすると、震災から9ヶ月経った今でも、光景がフラッシュバックする。ずぶ濡れのままの方、泥で汚れた衣服を身にまとった方・・・。「本来だったら患者さんが亡くなったときには、私たち看護師はご家族と一緒に患者さんにまつわる思い出話をしたり、患者さんの好きな洋服を着せて、ご遺体をきれいにして、お見送りをするものなのに、何もして差し上げられませんでした。」

ご遺族が面会に来れた場合には、ご遺体袋を開けて顔をみせてあげながら、「息子さんが来たよ」、「お嫁さんが来てくれたよ、よかったね」と声をかけた。辛い仕事だった。胸にこみ上げてくるものを抱えながらも、患者さん、家族の前では泣かないようにと必死だった。

元気に部屋を出る患者の後ろ姿を見ている

元気に部屋を出る患者の後ろ姿を見ている


石巻赤十字病院が通常業務を取り戻し始めたのは、3月29日頃からだ。佐藤さんも、もともとの担当である療養支援室の仕事に戻った。

療養支援とは、病気で不安に思うこと、悩んでいること、治療中の生活や治療費の心配などについて、患者さん本人、あるいは家族、友人などの相談に乗る仕事だ。なかでも多いのが、がんの患者さんからの相談という。

震災後は、震災前まで病院に通院していた患者さんが安否を知らせに来てくれたり、「診察がなくなったけれど、いいのかな」、「薬がなくなったんだけど、どうしよう」と相談に訪れたり、なかには、「病院の人たちは大丈夫ですか?」と心配して立ち寄ってくれる人もいた。

がん患者さんのなかには、自分ががんであることを悟られたくないと、周囲に隠している人も多い。避難所生活を強いられている人のなかには、気持ちを吐き出す場所として、療養支援室に立ち寄る人もいた。そんな時、佐藤さんは、1時間、2時間と話を聞くこともあった。被災のときのこと、今の生活、親戚のこと・・・、話は尽きなかった。

東北大学病院の北村奈央子さんから、「被災地のがん患者に、医療用カツラや帽子、乳がん患者用の下着を届けるプロジェクトを立ち上げました」と電話がかかってきたのは、4月下旬のことだ。もし必要であれば石巻赤十字病院にも送りたい、という申し出の電話だった。

「神様からの頂き物だなと思いました」と、佐藤さんは言う。

石巻赤十字病院看護師 元気に部屋を出る患者の後ろ姿を見ている
「患者さんの状況を聞いていて、本当に神様から頂き物だと思った」。One worldプロジェクトで届いた、医療用カツラや帽子。提供:北村奈央子さん(東北大学病院)

実際、カツラや下着を手にした患者さんたちは、喜んで帰っていった。「患者さんの喜ぶ姿を、自分一人で独占して申し訳ない」と思うほどだった。療養支援室で相談を受けるとき、佐藤さんはいつも、患者さんが部屋から出て行く後ろ姿を見るようにしている。扉を開けて入ってくるときに比べて、元気になっているか、気持ちが落ち着いているかを見るためだ。

「試してもいいですか?」とブラジャーをつけてみた患者さん、自分に合うカツラを選んで鏡を覗き込んだ患者さんは、だんだん背筋が伸び、最後には「このまま帰りますね」と、笑顔で帰っていくという。その後ろ姿は「ピッと背筋が伸びているんです」。

「本当にいい仕事をさせていただいています」。患者さんの幸せそうな後ろ姿を見るたびに、佐藤さんはいつも感謝の気持ちでいっぱいになる。

人はこんなにも協力してくれるのか! 「ありがたい」としかいいようがなかった

人はこんなにも協力してくれるのか!
「ありがたい」としかいいようがなかった


「震災で失ったものもありますが、いただいたもののほうが多い気がします」と佐藤さんは言う。

夫と2人の娘という家族は皆無事だったが、親戚を亡くした。病院では、多くの命が突然失われるのを目の当たりにした。一方で、得たのは、「人と人とのつながり」だ。

震災当日、佐藤さんは東京で行われる研修に参加するため新幹線で南下していた。地震に見舞われたのは、福島駅に止まった新幹線が、駅を出ようしたときだった。詳しい状況もよくつかめないまま駅で降ろされ、不安でどうしようもないなか、隣に座っていた見ず知らずの女性が話し相手になってくれた。ホテルのロビーで一夜を明かし、石巻へ戻るにいたっては、タクシーの運転手が、行っては引き返しということを繰り返しながら、走れる道を探しながら、帰り分のガソリンがぎりぎり保てるところまで連れて行ってくれた。

その道中、家族と連絡が一切つかず、「きっと無理だろう」と泣きながら向かっていたものの、自宅に帰ると、夫も娘も無事だった。特に、娘二人は、それぞれ野蒜(のびる)と大街道という、海に程近い職場にいたものの、職場の人たちに助けられ、支えられ、命を救われた。「生きていたことが本当にありがたい。抱き合って喜びました」。

石巻赤十字病院看護師 人はこんなにも協力してくれるのか!「ありがたい」としかいいようがなかった

病院では、全国各地から駆けつけてくれた多くの医療チームが支援の手を差し伸べてくれた。「人ってこんなにも協力してくれるんだと、ありがたいとしか言いようがなかったです」。

そして、赤エリアや黒エリアでの家族支援、遺族支援にあたり、自分自身のメンタル面をコントロールすることが大変だったときには、一緒に働いている同僚たちが支えになってくれた。医師や臨床心理士が話を聞いてくれたこと、同じ任務に当たっているメンバーと、慌しいさなかに一緒に夕飯を食べながら辛い気持ちを話し合えたことが、乗り切れた秘訣だ。

生きたものの使命を感じている

生きたものの使命を感じている


佐藤さんのもともとの職業は、助産師だ。療養支援室を担当する前は、血液内科や緩和ケアのチームで働いていて、そのもっと前には、助産師として命が生まれる現場に立ち会っていた。

助産師になりたいと思ったのは、看護学校の実習で、「『おぎゃぁ』と生まれてくる元気な声に、生命の誕生という神聖な瞬間に、感動したから」。

東日本大震災という大変な出来事を経た今、命の大切さ、重さを改めて感じている。

「看護師は命と向き合っていく仕事。生きたものの使命というと大げさかもしれませんが、どう生きていくのか、亡くなった方に恥じないよう、残された私たちは一所懸命、生きていかなければならないのかなと思っています」

(2011年12月)