カメラを手に、難病の娘の「今」を写真に

遺伝子異常による難病、結節性硬化症(TSC)と向き合う家族の軌跡。地域での活動を通じて広がる居場所

Aug 28, 2019

長女の難病発覚で失意の日々

「こんなに可愛いのになぜ?」

長女の結希さんの結節性硬化症が、決して軽症ではないとわかり和田芽衣さんは号泣したといいます。

結節性硬化症(TSC)は、過誤腫と呼ばれる良性の腫瘍が皮膚や神経系、骨など全身の臓器にできる遺伝子異常による病気です。各症状の発現時期や重症度は、年齢や性別によって異なりますが、新生児期には心臓の腫瘍、乳児期にはてんかん発作や知的障害、学童期からは顔面血管線維腫が多くみられます。また、脳腫瘍、腎臓腫瘍、肺のリンパ脈管平滑筋腫症など、重大な合併症を伴う場合もあり1、新生児期から生涯にわたって、各症状に応じた治療が必要となる病気です。結希さんに、最初の発作が起きたのは生後9ヵ月のときでした。起きているのに、まるで舟をこぐように体が揺れ、持っていたおもちゃを落としてしまったそうです。

すぐに結節性硬化症が疑われ、検査を受けることになりました。そこから確定診断が出るまでの1週間、芽衣さんはインターネットで病気を否定する要素を必死に探しました。

「結希が病気だとは信じたくなかったのです。しかし、情報を知れば知るほど結節性硬化症だと思わざるを得ませんでした。確定診断を受けたときは『やっぱりか』と思ったくらいです。でも、せめて軽症であってほしいと願い続けました」

最初に出された薬が効けば軽症の可能性がありましたが、2週間後、その可能性は否定されました。薬が効かず、結希さんは中~重症であることがわかったのです。

「そのときが一番ショックで、夫と一緒に娘を抱きしめて泣きました。夫と一緒に泣いたのは、後にも先にもこのときだけです」

そんな失意の中、芽衣さんは泣きながらもカメラを手にして、娘の写真を撮り始めました。医師から「今日できていることが明日できなくなる可能性がある病気」だと告げられていたからです。

「この笑顔を明日は見られなくなるかもしれません。顔に症状が出ることもあります。目の前のものがなくなってしまうかもしれないという焦りから、少しでも写真に残そうと思いました」

ファインダー越しの新しい世界

子どもの頃からの趣味だったカメラを手に取り、ファインダーをのぞくと、少し冷静さを取り戻せることに芽衣さんは気がつきました。それからは片時もカメラを手放すことなく、結希さんとの日常を撮り続けました。辛さや心細さなど、その時の気持ちを素直に表現できる写真は、芽衣さんの日記代わりにもなりました。

結希さんが発症した当時、芽衣さんは育児休暇中でした。

「病院で心理士としてがんの患者さんやご家族のケアをしていました。大好きな仕事だったので、育児休暇後は当然復職するつもりでした。しかし、既に決まっていた保育園には預かりを断られました。仕事には未練がありましたが、心の整理をつける時間はありませんでした。でも、私自身が後悔しないためにも育児に専念しようと、プロの心理士としての仕事を退職しました。娘の病気で自分自身が心理的なケアを必要としていたので、復職したとしても悩んでいたでしょうね。」

一時期は1時間に何度もてんかん発作を起こすほどだったので、転んで怪我をさせるのが怖くて、芽衣さんは家の中でも結希さんの側を離れることはできませんでした。

「当時の娘は自閉傾向が強く、呼んだり、話しかけたりしても反応がありませんでした。外出することもままならず、娘の反応もなく、本当に辛い日々でした」

治療のおかげで、言葉も体も少しずつ成長していき、2歳から4歳までは療育園に通いました。そこには様々な理由で発達がゆっくりな子どもたちが親とともに通っていました。結希さんが年中になる前の年、「もっとたくさんの同年代の子供たちと過ごさせたい」と思った芽衣さんは、幼稚園に相談に行きました。ところが近所には結希さんを受け入れられる体制が整った幼稚園はなく、働いていなかったため保育園に入るという道も閉ざされました。

そこで芽衣さんは決意します。

「当時、娘はすぐに体調を崩していましたし、入院も定期的にあるので、頻繁に仕事を休まなければならない。これでは通常の働き方では難しい。そこで、趣味だった写真を仕事にしようと決めました。フリーランスとしてでも働けば、娘を保育園に預けることも可能だったからです。」

思いきった決断が、少しずつ芽衣さんの気持ちに変化をもたらします。カメラを携えて福祉施設の写真を撮るようになり、少しずつ地域の福祉に携わる人々との繋がりが生まれてきました。

「福祉事業所で働く人は、娘の先輩となるような方々です。グループホームで生活をしている方もそうです。少しずつ娘の未来が想像できるようになりました」

生まれ育った横浜に帰って子育てをしようかと考えた時期もありましたが、「一番どん底だった時代の私を支えてくれたのは、この町の人」という気持ちが強くなりました。

繋がることで前へと進む力に

2014年、結希さんと同じ病気を持つ人と知り合いたいと思い、芽衣さんは東京で開催されたレアディジーズデイ(Rare Disease Day)、世界希少・難治性疾患の日のイベントに参加しました。残念ながら、そこで同じ病気の人とは出会うことはありませんでした。しかし行動派の芽衣さんは「地元の飯能市であれば参加できる人もいるかもしれない」と思い立ち、すぐに知人と2人でイベントを開催しました。それが現在の「ニモカカクラブ」病気とこどもと家族の会の原点です。

「最初は小さなイベントでしたが、続けることで毎年参加者が増え続けています。特定の疾患を対象にするのではなく、就学問題やいじめ、きょうだいのことなど共通の悩みがテーマです。そこでは、病気の子どもたちを安心して遊ばせることもできます。私自身が求めていた場所なので、楽しんで活動をしています」

結希さんの病気がわかって5年間は地獄のように辛かったと話す芽衣さん。それでも「もし同じ病気の子がもうひとり増えても大丈夫」と自信がつき、今では3人の娘さんに囲まれた賑やかな生活を送っています。

結節性硬化症の治療には複数の診療科で受診を続けることが必要な場合があります。そうした負担を減らし、抜け漏れのない診療を実現するため、現在はTSCボードと呼ばれる診療連携チームも全国各地の病院で誕生しています。

「先生方も頑張ってくれていますし、新しい薬も開発されています。娘の未来は着実にいい方向へ向かっていると感じています」と芽衣さんは明るい笑顔で話をしてくれました。

参考文献

  1. 難病情報センター:http://www.nanbyou.or.jp/entry/4384 

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