震災直後

東北大学病院薬剤師 患者さんの命をつなぐ

震災直後 


カウンターで外をボーっと眺めていたら、どどどどどどどどーっと地鳴りが来て、「来るな、来るな」と思っていたら、ズドンと最初のドカンが来た——。

2011年3月11日14時46分。東日本大震災が起こったとき、薬剤師の轡基治さんは、うえまつ調剤薬局のカウンターの中にいた。前々日から震度4、5の大きな揺れが何度か起きていた。3歳のときに宮城県沖地震を経験し、「いつか大きな地震がくる」と教えられて育ってきた轡さんは、他の宮城県人同様に、どこかで覚悟はしていた。しかし、「ついに来たか」と思いつつも、それは想像以上だった。

普段はどっしりと立っている調剤棚も、調剤用の分包機のような大きな機械も、横に吹っ飛んだ。「中にいたら圧死する。」轡さんは、薬局内にいたスタッフ全員を外に出し、大きな揺れが続くなか、建物の外の金網につかまりながら、携帯電話を取り出し、ツイッターやフェイスブックに「みやぎ、壊滅」「みやぎ、壊滅」と打ち込んだ。

東北大学病院薬剤師 患者さんの命をつなぐ
「情報がないと動けない」。フェイスブックやツイッター、メールで情報のやり取りをしていた。懐中電灯は「いつか」のために常日頃から持ち歩いていたもの

轡さんが勤めるうえまつ調剤薬局は、仙台市の南東、太平洋に面した名取市にある。「田舎の本当に古い集落なので、じっちゃん、ばっちゃんばかりのところ。」薬局の外来で薬を渡すほか、隣にある在宅専門の診療所と協力し、訪問薬剤師として自宅で暮らす患者のもとを回り、薬の管理や飲み方の指導を行っている。

「暗くなる前に職員を家に帰さなければいけない」と、薬局のスタッフを全員家に帰した後、残った診療所のスタッフと一緒に、まず、誰のところに行くべきか、情報の整理を始めた。とはいっても、電子カルテは使えないし、紙カルテは、ガラスが散乱し、足の踏み場もないような診療所の中にある。揺れ続けるなかでなんとか必要な資料を取り出し、人工呼吸器をつけている患者さん、在宅酸素の患者さん、独居の患者さんをピックアップし、「家族が一緒にいるであろう人は申し訳ないけれど後回しにさせてもらって」、気になる患者さんから手分けしてまわることにした。

東北大学病院薬剤師 患者さんの命をつなぐ

轡さんが向かったのは、その日の夕方、訪問する予定になっていた寝たきりの独居患者さんだ。山の上に住んでいる患者さんの自宅に行くには、途中、橋を渡らなければいけない。しかし、「暗くなるから、ここから先はダメだ」と、立っていた警官に止められた。その日はやむなく引き返し、翌朝、明るくなってから、遠回りをして橋を通らないルートで行ったところ、家は空っぽ。隣近所の人から「今朝方、救急車が来ていた」と聞いた。冷たくなって亡くなっているところを見つけられ、救急車で運ばれたという。

「精神的にストレスを受けやすい方でした。一人で寝たきりで、古い家のなかで一日中揺られ続けていたのだから、相当ストレスがかかったと思うんです。もし、そばに誰かがいて声をかけてあげられればちょっとは結果が違ったかもしれない。もし自分が行けていたら何かが違ったのかもしれないと思う部分はある。でも、行っていたら、そこに張り付きになって他のことができなかったかもしれないし、たぶん、どうにもならなかったとは思うんですが・・・」と心中を語る。

助けるのが正解か、引き返すのが正解か・・・

助けるのが正解か、引き返すのが正解か・・・


地震が起きたのは金曜日の昼間。轡さんと一緒に在宅医療を支えている医師、看護師、ヘルパーたちのほどんどが訪問に出ていた。そのなかで、轡さんは一人の仲間を失った。

その看護師は海沿いに住む患者さんのもとを訪れていた。手足や喉、舌の筋肉がやせ衰えていくALS(筋萎縮性側索硬化症)の寝たきりの高齢の方で、夫と二人暮らしをしていた。津波が迫るなか、患者さんの夫とともに患者さんを担ぎ上げ、二人を二階に避難させるやいなや、津波にのまれた。

「患者さんの無事を確認しました」。チームのメーリングリストに、そうメッセージを送ったのが、最後の言葉だった。

「こうした話は美談になりがちですが、『お前、よくやった』という気持ちはないんです。ただ、行くか行かないかは、その人の価値観、人生観、自分が抱えているものでもって判断しなければいけないので、難しいところですよね」

もし彼女が助けに向かわなかったら、寝たきりの患者さんを夫一人で担いで助け出すのは無理だっただろう。身を挺して助けるのが正しかったのか、途中で思い切って引き返すのが正しかったのか。そこに答えはない。ただ、轡さんには、仲間を失った辛さと、「なんで帰ってきてくれなかったんだ」という思いが残る。

自分の判断で、無償で薬を渡していた

自分の判断で、無償で薬を渡していた


地震発生の翌日からは、薬局の外来業務のほかに、避難所を回る日々が始まった。在宅で看ていた患者さんの多くが自宅を離れ、避難所生活を行っていたからだ。「○○さんのご家族の方はいませんか」と、近くの避難所を回って探し、ようやく出会えれば、手持ちの薬が不足していないか、確認する。

一方で、薬局には翌朝から、近くの小学校に避難している人たちが列をなしていた。財布も持たず、着の身着のまま逃げてきた人も多い。当然、薬を持っているわけがない。

厚生労働省が、処方せんがなくても医療機関や薬局で医薬品を提供してもよい、と通知を出したのは12日のこと。いつもなら通知はFAXで届くが、当然、届くわけもなく、轡さんがフェイスブックやメールで知ったのは2日ほど経ってからだった。

とはいっても、その間も、患者さんはやってくる。「『ちょっと待ってください』といって、そのまま患者さんを帰すわけにはいかないですよね」。

どんな色や形の薬を使っていたのか、患者さんから話を聞き、自分が持っている医療の知識、薬の知識をフル稼働させて、普段使っていた薬を推測し、薬局にある薬のなかからより近いものを選び、無償で渡していた。「自分の判断でお渡しするしかありませんでした」。

いかにサポートすべきか 一人ひとりと向き合って考えていくしかない

いかにサポートすべきか
一人ひとりと向き合って考えていくしかない


在宅でみていた患者さんの状況確認が一段落してからは、避難所の健康管理のサポートも始めた。

避難所になっていた小学校には、当初、700名以上もの住民が避難していた。その衛生管理を支えていたのは、3人の養護教員。しかも、そのうち2名は定年間近だった。3人は、一度も自宅に帰ることのできないまま、700人以上の健康管理に奔走していた。

「彼女たちが倒れたら、ここの避難所の衛生環境は一気にダメになってしまう」——。

そう思った轡さんは、ちょうど北九州から支援にやってきていたNPO法人のチームに入り、薬剤師として、そしてガイド役として支援に入った。北九州からやってきたチームにとっては、轡さんの持つ薬に関する専門知識はもちろんのこと、地元ならではの土地勘、言葉という点でもありがたい存在だったのだ。

薬局での外来業務、在宅患者の対応を終えて、午後3時頃から避難所の健康管理をサポートする。そんな慌しい日々が、1ヶ月ほど続いた。地震の翌日から、家族が、被害が比較的少なかった内陸部にある妻の実家に避難したこともあり、患者さんのこと、避難所で生活する人たちのことに集中できた。

轡さんは、「かみさんと、1歳になったばかりと3歳児のチビ2人」という4人家族。地震当日、末っ子は保育園に、妻と3歳の息子は集団検診で区役所に行き、その後、近くのショッピングセンターに行っていた。家族の安否がようやく確認できたのは、夜中の12時を過ぎて自宅に戻ってきてから。マンションの扉を開け、家族がいることを確認したとき、その日、初めて安心した。

 いかにサポートすべきか

「もしかしたらもしかしているかもしれないと思っていました。家族と連絡がつかないけれど、目の前にはぐちゃぐちゃになった薬局があり、在宅の患者さんとも連絡がつかない。一緒に働く仲間たちもバタバタしていて、心配しながらも動くしかありませんでした。家族も、相当心配してくれていたようです」

震災から9ヶ月——。患者さんの自宅を訪問しながら、「あの時は大変だったよね」と一緒に振り返ることもあれば、そんな会話をしづらい家庭もある。患者さんも、そして轡自身も、震災以前とは違う何かを抱えている。ある薬局チェーンが自社の社員に対してうつのスクリーニングを行ったところ、被災地の従業員全員にうつの傾向が見られたという。「医療者にかぎらず、そういう要素を皆持っていると思う」

轡さんの仕事である訪問薬剤師とは、患者が住む家に上がり、患者本人、家族と話をし、そして薬の管理、指導を行うというもの。

「患者さんが抱える医療面の問題だけではなく、その後ろにある生活背景まで意識せざるを得ない仕事です。津波の被害を受けた人たちは、そういう生活要素が一旦すべてなくなってしまった。ゼロからつくりなおしていく過程のなかで、医療が占める割合、果たす役割もおそらく変わってきていると思います。そうしたことも配慮しながら、いかにサポートしていくかは、一人ひとりの患者さんと向き合いながら考えていくしかないのかなと思っています」

(2011年12月)